(▲詳細は画像からどうぞ)
サー・ポール・マッカートニー MBE (Sir James Paul McCartney, MBE, 1942年6月18日 – )は、イギリスのリヴァプールに生まれたロックミュージシャンである。1960年代に世界を席巻したビートルズの中心メンバーで、ジョン・レノンとの作曲家コンビで代表作の多くを手がけた。 グループの解散後、70年代にはウイングスのリーダーとして、80年代以降はソロ・アーティストとして活動し、全米チャートの首位に9曲、トップ20に20曲以上を送り込んでいる。ギネスワールドレコーズには「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」「ゴールドディスクの最多保持者」として記載されている。ファッションデザイナーのステラ・マッカートニーは娘。
親しみやすく美しいメロディの作風に特色があり、ビートルズ時代においては「イエスタデイ」「ヘイ・ジュード」「レット・イット・ビー」「オブラディ・オブラダ」「ミッシェル」など、ビートルズの代表曲とされる楽曲の多くを手がけた。 ベーシストとしての評価が高いが、他にもアコースティック・ギターやエレキギター、ピアノ、キーボード、ドラム、また管楽器をも扱うマルチプレイヤーである。特にビートルズのデビュー前、スチュワート・サトクリフ在籍時はギタリストであり、また時折ドラマーを務めたこともあったため、「タックスマン」「涙の乗車券」などビートルズ時代のいくつかの曲でリード・ギターを担当し、また「バック・イン・ザ・USSR」「ディア・プルーデンス」「ジョンとヨーコのバラード」などでドラムを叩いている。ビートルズ解散後、初のソロアルバム「マッカートニー」ではすべての楽器を自らがマルチレコーディングしたのをはじめ、ウイングスの名盤「バンド・オン・ザ・ラン」でもギターやドラムを担当するなど、そのマルチプレイには特筆すべきものがある。 「愛と平和」のオフィシャルイメージでステータスを持った元パートナーのジョン・レノンと比較され過小評価されることが多いが、その音楽性は非常に幅広く、また様々な新要素を取り入れ続ける貪欲さが彼の音楽の大きな魅力を形成している。
ビートルズ解散直後
1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表。これによってビートルズは実質的に解散した。それから丁度一週間後、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからはグループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用したとして非難され、評論家からは作品の極めて簡素で素朴な内容を批判されることとなった。 『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』及びアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。当時マネージャーにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート~ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
ウイングス
ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻のリンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。